やまこしについて

山ん笑

取り戻した笑顔 これからもずっと…

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 「古志」という言葉は古くからあります。「先代旧事本紀」の「国造本紀」に「高志国造 志賀高穴穂(成務天皇)朝御世、阿閇臣祖屋主田心命三世孫市入命定賜国造」とあり、神話時代に県中央部一帯に本拠のある大彦命の子孫が国造に任命されたことが記されています。はっきりした記録になると平安時代中期に書かれた「和名抄」で古志郡と三島郡が分立しており、「高志」「古志」という地名は非常に古くからのものであることが分かります。
江戸時代になると、1618(元和4)年から山古志地域は長岡藩領となり、山六ケ村と山二十村に分けられました。1702(元禄15)年以降は幕府領に編入され、二十村がこの地域全体の呼称となり、幕末には「山古志組」と呼ばれるようになりました。
 明治時代に入り、現在の市町村制につながる制度が実施されるようになると、いくつかの集落がまとまって行政の村となりました。その後、明治の大合併を経て、1956(昭和31)年に山古志村ができました。山古志村は2005(平成17)年に長岡市と合併し、現在に至ります。

やまこしふるさとガイド

やまこしの集落

現在、山古志には14の集落があります。

やまこしの年中行事

【写真】盆踊り

盆踊り

 盆踊りは、お盆に迎えた仏様の霊をなぐさめ、ふたたび送りだすために行われます。以前は、お盆のときだけではなく、神社や鎮守様の命日などにも行っていたそうです。集落によってやり方はさまざまですが、4隅の柱に萩とカヤがつけられたやぐらの上で太鼓を打ち、音頭とりの甚句にあわせて輪になって踊ります。
 若い人たちは盆踊りのときに化粧をしたり、山笠をかぶるなど変装をして踊ったそうです。また、ほかの村(集落)から酒樽をかついだ若い衆が来て踊りの輪に加わったと山古志村史に記されており、若者たちの交流の場でもあったそうです。

【写真】さいの神

さいの神

 さいの神の作り方や形は、集落によって違い、青竹や門松を芯にしたり、松の木で骨組みを作り、ワラを積み上げつくったそうです。さいの神は、前年使用したお札やしめ縄などと正月に書いた書き初めを一緒に飾ります。
 昔から集落で1つのさいの神をつくっていたわけではなく、世帯ごとや本家と分家でつくったり、集しゅうらく落で数箇所に分けてつくるなど、集落の中なかに複数のさいの神がつくられたそうです。
 さいの神かみでは、「さいの神かみで餅を焼いて食るとまめになる」や「さいの神かみの煙の行った家は豊作になる」「書き初めが火に煽あおられて空そら高く上がると字が上手になる」など数々の俗信も伝えられています。

【写真】盆踊り

十二講

 十二講は、旧暦の2月12日に十二山の神をまつる神社や内鎮守などで行われます。山の神様に魔よけや狩りの殺生の浄化、五穀豊穣などを願い、弓で木や的、その年の方角などへ向って掛け声とともに矢を射ます。掛け声は集落によってさまざまだそうです。
 現在は、個人で行われるほかに、種苧原、梶金、大久保集落などでは集落行事として行われています。梶金集落では、2009(平成21)年に集落行事として約30年ぶりに復活しました。